【大学教授が語る】童話から学ぶ、心を豊かにする“異界”への誘い

幼い頃、絵本をきっかけに慣れ親しんだ「童話」の世界。近年では、最新の映像技術による童話の実写映画も公開されるなど、子どもだけでなく大人になった今でも魅了される人が少なくありません。童話のなかは、日常では決して味わうことができないファンタジーの世界。そうした“非日常”に惹かれるのは、子どもも大人も変わらないのかもしれません。

では、人はなぜ“非日常”を求めるのでしょうか。今回はグリム童話を中心にメルヒェンや伝承文学を研究されている東洋大学文学部の大野寿子教授に、文学研究の視点から“非日常”や“異界”によって心を豊かにするヒントをお伺いしました。

シンデレラが履いていたのは金の靴だった?伝承で形成される童話のホント

画像:東洋大学文学部国際文化コミュニケーション学科 大野寿子教授

──はじめに、大野先生が研究されているグリム童話について教えてください。そもそもグリム童話は、どのように生まれたものなのでしょうか?

「グリム童話といったお話の多くは、もともとは“口承文学”でした。絵本も電話も、もちろんインターネットもないはるか昔、親から子へ、子から孫へと語り継がれる伝承もあれば、たとえば村から村へと移動する旅人によって、ある地方に伝わる昔話や噂話や武勇伝が別の地域へと運ばれ、そこでまた語られ、さらに運ばれていくこともありました。そうしていくうちに、まるで伝言ゲームのように少しずつ内容が変化したり、その土地の風土や文化に染まったりしながらお話が形成されるというのが、“伝播説”という考え方です。」

──童話は創作されたものではなく、各地方で伝承されたもの、ということですか?

「はい。正確に言うと、アンデルセン童話のような創作童話もありますが、グリム童話はもともと民間伝承です。その200を超えるお話を編纂したグリム兄弟は、童話(メルヒェン)のほかにドイツの伝説も集めました。そのひとつが、『ハーメルンの子どもたち』というタイトルの「ハーメルンの笛吹き男」伝説です。どこからともなくやって来た旅の笛吹き男が、不思議な音色の笛を奏で、最終的に町中の子どもたちを連れ去ったと描かれています。でもこの伝説の背後には、ハーメルンに住んでいた子どもたちが実は“流行病で亡くなった”、または“十字軍に従軍した”、あるいは”東方の植民地へ移住した“などさまざまな解釈が存在します。」

──ということは、事実というものに物語性が追加されていったのですか?

「史実に物語的解釈が施されたのか、それとも物語に史的解釈の余地があるのか、研究する立場によってどちらともいえそうですね。事実とは異なったまま人から人へと伝えられ、しかも伝えられながら変化していくこともまた、伝承の特徴のひとつといえます。たとえば童話(メルヒェン)の『シンデレラ(灰かぶり)』が履いていたのは、“ガラスの靴”というイメージが一般的ですが、それはフランス系(ペロー童話)の話です。ドイツ系(グリム童話)の伝承では“金の靴”です。あるいはこの“ガラス”すらも、別の素材(動物の皮)の誤記誤訳という説があります。」

──間違ったイメージが、現在では当たり前のものとして確立しているとはおもしろいですね。

「童話(メルヒェン)はもともと民によって“語り”継がれたものなので、そのストーリーのイメージもまた、語り手や聞き手が好き勝手に思い浮かべるものでした。伝承されながら、言葉やディテールは変化していき、イメージも勝手に想像される……となると、どれがオリジナルなのかなんて、解明できないのかもしれませんね。そんな口頭伝承を19世紀初頭に書きとどめたのがグリム兄弟のグリム童話。本当の名前を『子どもと家庭のメルヒェン集』といいます。なので、“グリム童話のオリジナル”には挿絵がないのです。

でも、印刷技術が発展し童話の価値が再発見されていく時代の流れとともに、グリム童話にもたくさんの挿絵が施されていきます。すると今度は挿絵画家のイメージがその時々の流行と混じり合い、美化されたり誇張されたりしてたくさんの絵本が生まれていきました。そして現代の私たちにとっては、ディズニーの描く『白雪姫』や『ラプンツェル』が、スタンダードになっているのかもしれませんね。ふたつとも、もともとグリム童話だということはご存知ですよね。」

現実から乖離した非日常が、“異界”への入り口

──近年では、そういった童話の世界を演出したテーマパークや飲食店などに、注目が集まっています。その理由として、どのようなことが考えられるでしょうか?

「もちろん、演出技術が向上し、“そのような空間”が身近になったという物理的要因も考えられます。でも、ニーズがないと“そのような空間”は生まれません。ということは、一時的に“現実から離れたい”、“非日常に身を置きたい”という誰もが抱く精神的要因に着目すべきですし、その気持ちが、”だから大好きなアニメのコスプレをしよう“、”だから大好きな映画の聖地巡礼をしよう“、そして、“だから大好きな物語やゲームの世界の中に身を置こう”というかたちでの現実逃避を、ある意味で実現させているともいえますね。

以前、『不思議の国のアリス』の世界を演出したカフェに行ったことがあるのですが(『アリス』は伝承ではなく創作文学です)、凝った装飾や物語を連想させる料理など、雰囲気づくりをとても大切にしている印象を受けました。ジョン・テニエルのオリジナル挿絵も大きく壁一面に描かれていて、まるで自分が、アリスやウサギよりも小さくなったかのような錯覚も覚えました。そんな感じで、訪れた人が絵本や童話の世界に入り込み、非日常を体験できるというわけです。もちろん店員さん(キャスト)の言葉のマジックも重要です。

そしてこのようなお店では、“あなたも変身してください”と呼びかけられることがあります。実際にこのカフェでは、ウサギの耳のカチューシャが用意されていました。」

──童話の中に登場する人物と同じアイテムを身につけることで、よりアリスの世界の一部になれるのですね。

「自ら変身するステップを踏むことで、物語の世界により一層入り込めます。コンセプトはお店によって異なりますが、“現実と乖離した非日常”という演出を狙っている点は、たとえばコスプレとも共通点がありそうですね。地域的制約や時間的制約を逃れ、人間の日常や精神生活の“裏”、“奥”、“外”に必要不可欠な空間領域として想像されるのが“異界”(The other world)とすれば、このようなコンセプトカフェという非日常空間もまた、広い意味で“異界”のひとつと見なすことができるでしょう。

ただし、“異界”という言葉は古くから日本にあるものではなく、“他界”や“異郷”という表現のほうが実は伝統的です。“他界”というともちろん“死者世界”のことであり、“彼岸”、つまり三途の川の“あちら側”のことです。生と死を分かつ境界線の“あちら側”と“こちら側”という二元論的思考は、もちろんヨーロッパにもあります。さらに、そういう死者世界や“異(い)なるもの”の世界(異界)は、人間世界を取り巻いているので、人間世界を“ミクロコスモス”(小宇宙)、それを取り巻く“異界”を“マクロコスモス”(大宇宙)と呼んだりもします。

町の周りに壁が張り巡らされていた中世ドイツにおいて、町(=ミクロコスモス)の外には、得体の知れない森(=マクロコスモス)が広がっていました。森は法や掟の及ばない空間であり、アウトサイダーの住処であり、不思議な空間であり、ゲルマン神話時代の聖域であり、死者のさまよう空間でした。

そんな森に迷い込み、異(い)なる存在である魔女や小人に出会うのが、『ヘンゼルとグレーテル』や『白雪姫』です。グリム童話に登場する不思議な森は、“異界”、つまり“あちら側の世界”であり、“死者の世界”であるという民俗学的解釈はある意味定番ですが、我々人間あるいは現代人からすれば、そんな不思議な森を含む“物語世界”そのものが、結局は“異界”というファンタジーワールドなのでしょう。」

童話の教訓は、異界での経験から生まれている

──森が死者世界の象徴的な姿なら、森に入って森から出る童話の主人公は、一度死を体験して元の世界に戻るということなのですか?

「人間は思考する生き物です。死んだらどんな世界に行くのだろうというのも思考のひとつであり、さまざまな信仰においてそのヴィジョンが説かれ、その死者世界あるいはユートピアを昔の人々は純粋に想像しながら生きていました。もしかしたら臨死体験にも耳を傾けたかもしれません。あの世というまだ見ぬ世界が想像され、そこでは不思議な出来事が展開する……そんなお話を人々が聞いては伝えていったとすれば、それも立派な伝承です。童話の中の不思議な空間をすべて死者世界と言い切るつもりはありませんが、そういう精神文化を人々は、古代より必要としていたとはいえると思います。

森はそもそも木の連なりにすぎず、人々はそれらを建材、燃料として使用してきました。これが森の物理的側面です。もし人々が森に単なる物理的価値しか見出さないならば、森で不思議なことが起こるかも……とは思わないはずです。ところが実際、ゲルマン北欧神話では森は聖域とされ、日本にもまたご神木などが存在する。我々は、パワースポットやお守りの力を信じたり、アイドルと握手した手、有名人が座った椅子、ドラマ撮影に使われたカフェなどに特別な何かを感じたりします。ある特別な椅子に、ただの椅子という物理的価値以外の―何かロマンを感じさせるような―精神的価値を見出しながら生活しているのです。

単なる物質に”神聖”という付加価値や“胸キュン”につながる付加価値を見出だすことは、一見無駄のように映りますが、実はとても大切な癒しの処世術かもしれません。こういうのが、つらいときの心の拠り所になったりしませんか?現実世界を生きていくうえで、このような世界観を人間は常に必要としていたといえるのではないでしょうか。」

「グリム童話では、“異界”は登場人物が成長するための経験を積む場所として描かれることが多いです。たとえば、『ヘンゼルとグレーテル』は貧しさを理由に森に捨てられた兄妹が、悪い魔女に食べられそうになりながらも機転を利かせて魔女を退治します。最終的に魔女の宝を手に入れ、優しい父親の元に帰って幸せに暮らしますが、このお話の大切なところは、森に捨てられ泣いてばかりいた子どもたちが、魔女に殺されそうになり、死ぬような思いを乗り越えて強くなり、最終的に自らの力で森を出るということです。このような死ぬほどの試練や過酷な務めは、成長するために必要な“通過儀礼”でもあるともいえますね。弱い自分や幼い自分を葬り去り、新しい大人な自分として蘇るためのプロセスのことです。その弱い自分に死を迎えさせ、新しい自分として再生する行程が、森という“異界”で行われている……『白雪姫』も、森の中で“死”を体験しますよね。」

──異界は死後の世界や通過儀礼を迎えるための場所など、さまざまな存在として解釈されているのですね。

「そうですね。森は異界であり“一時的な死と再生の空間”でもあると考えると、異界とは”本来の自分ではなくなる場所“とも解釈できます。シンデレラも、もともと良家のお嬢さんだったのに、灰にまみれて台所仕事をさせられています。白雪姫も本当はお姫様ですが、森の小人の家で、姫には似つかわしくない家事をするようになります。いずれも、本来の自分とは異なる立場におかれています。その修業期間を成長するための試練と考えれば、彼女はそのとき、本来の自分が一時的に死を迎えている状態であり、本来の自分ではない”異(い)なる状態“つまり”異界にいる状態“だともいえます。異界は空間的なものだけではなく、時間的なものでもあるのです。そしてこの異界からは必ず脱出しなければ、つまり”再生“しなければならないのです。

前世の記憶を失くして生まれ変わり、旅をしながら本来の記憶と本当の自分の使命を取り戻していく……なんていう、映画やゲームで最近よく目にするストーリーも、“記憶喪失”状態を本当の自分ではない“異(い)なる状態”と捉えることができますね。前世を少しずつ思い出しながら試練を乗り越えているストーリー展開は、たとえば『ヘンゼルとグレーテル』のお話も、両親の家ではなく、子どもたちが目覚めたら森の中に捨てられていたという場面で始まり、自分たちが捨てられた経緯を回想しつつ森の奥深くへと進んでいく展開に置き換えてみると、興味深い解釈にたどり着くかもしれませんね。」

多角的視点を養える異界には、成長のヒントがたくさんある

──でも先ほどは、“異界”は癒しの空間だったのに、今度はつらい“試練の空間”ということになるのですか?

「混乱しちゃいそうですが、どちらも“非日常”状態であることに変わりはありません。では、ヘンゼルとグレーテルも白雪姫のような主人公を、“旅人”に置き換えてみましょう。定住地と森は隣接しています。日常である定住地から出て、掟の及ばない異界である森へ行き、ふたたび元の日常に戻る。この行程を旅とすれば、旅する人は異人であり、異界の住人となります。よく、“かわいい子には旅をさせろ”といいます。“旅”で得られる過酷な経験や試練が人を成長させるという考え方ですね。親元というありがたい日常から離れ、一時的に本当の自分を見失ったり、つらい目にあったり、ストーリー上では本当に一時的に死を迎えたりして、少し成長した自分になって、ふたたびありふれた日常へと戻っていく。グリム童話の主人公は子どもであることが多いのですが、人間界と異界の二世界間を旅する旅人として、お話の中の子どもたちも現実の子どもたちも、あるいは昔子どもだった大人たちも、心を成長させていくのでしょうね。」

「でも、試練の最中はやっぱりつらいですよね。つらいときって、未来の自分を夢見たり、過去の素敵な思い出に包まれたり、大好きな音楽に癒されたり、お酒を飲んで酩酊世界にひたったり……一種の生産的ではない異質な時間を過ごして、また日常のつらい仕事や現実と向かいあう。こうなると、人生とは成長するための旅の途中であり、人間とは旅人そのものである……なんてカッコよすぎですが、童話(メルヒェン)の“森”の“旅”の途中では、主人公を助けてくれる“小人”や“おばあさん”に出会って、暖かい食事や魔法の道具を提供されたりします。そんな一助によって得られる希望こそ、つらい現実から一時逃避することによって得られる活力そのものだと思います。

東京ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどのワンダーランドに一日どっぷりつかり、夢の世界でファンタジーを味わい、物語コンセプトカフェで物語を味わい、映画やドラマの聖地巡礼で映画やドラマの世界を味わう。やっぱり人々の生活にとって、安らぎと癒しとしての“非日常”はなくてはならない大切な存在です。こんなふうに現実世界と異界を意図して行き来できる人は、困難を上手に克服することができ、豊かな人生を送るすべを心得ているといえるのではないでしょうか。」

──つまり、意図して現実世界と異界を行き来するということですね?

「もちろん、自分の大好きな場所や空間にその都度行ってみるだけでなく、留学などでそれまで自分の生活してきた環境を変えてみることも、まさに“旅”という“異界”を体験するひとつの方法です。でも、自ら“能動的”に異文化に飛び込もうとする留学とは違って、家族の海外転勤に”受動的“ついていく場合もあります。行きたくなくても行かざるを得ないとき、元の世界に帰りたい強く思うネガティブ思考型になってしまいます。つらいとは思いますが、そのつらさは一種の通過儀礼であり”成長のための異界“なんだという未来志向型になったり、あるいはそんなつらい生活の中にもささやかな”癒しの異界“を見出すことはできないでしょうか?

つらいことは誰にでもあります。そのつらいことを別の側面から見つめることができれば、ほんの少しだけ強くなれるのではないかと思います。私が皆さんに提供しているグリム童話の通過儀礼的解釈は、こういう点で日常生活に役立ち、心を豊かにするものだと信じています。」

──童話(メルヒェン)の異界には、自ら成長するためのヒントが隠れているのですね。

「いろいろな意味での異界体験のもうひとつのポイントが、“多角的視点”を養えることです。つらい環境から一時的に離れることにより、自分自身を客観的に見つめることができたり、自分の試練そのものを分析したりすることもできます。

たとえば文学研究では、この多角的視点はとても重要です。異界は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が住む空間であり、死者世界であり、通過儀礼の場であり、癒しの場であり……このようにさまざまな存在として解釈することができます。心理学的解釈では無意識の空間とも位置付けられます。どれかひとつだけが正しい解釈だと決めつけることはできません。なぜなら、時代や地域といったコンテクストによって判断根拠が異なるからです。

文学研究に限らず多角的視点があれば、考え方や価値観を豊かにすることができます。先ほどのアリスをモチーフにしたカフェなどは、人によってはあまり興味を抱かないかもしれませんが、そのような空間を癒しと感じている人にとってはとても価値あるものです。またインスタ映えという極めて現代的な視点に価値を見出す人にとって、そういうカフェは単なる自己承認欲求の道具でしかないのかもしれませんが、逆に自分がいかに見つめられているかを常に考えている人間は、自分を客観的にとらえることができる素質にあふれているともいえます。何事も極端はいけませんけどね。

知らない世界観を体験することで視野が広がり、時には新しい発見や嫌いなものを好きになるきっかけを得られることもあります。苦手な人や嫌いなモノも、別の角度から眺めてみれば、少しはいいところや好きな箇所が見えてくるかもしれません。でもそのためには、別の視点があるかもしれないとあえて立ち止まってみるようなひらめきや心のゆとりも必要です。“押してもだめなら引いてみる”と言うように……(笑)。童話だけでなく、我々の日常に溢れているさまざまな異界体験は、実は我々が気づかないだけで、本当はいつの間にか、こんな多角的な視点や新しい価値観を与えてくれるのだと思います。」

 
<プロフィール>

大野 寿子(おおの ひさこ)
東洋大学 文学部 国際文化コミュニケーション学科 教授

博士(文学)。専門はドイツ文学文化、伝承文学。グリム童話を中心としたグリム兄弟の業績を文献学的見地から研究。グリム・メルヒェンにおける「異界」としての「森」、グリム兄弟における自然、森と人間の文化史、伝承文学とエコロジー教育などを研究テーマとしている。おもな著書に『黒い森のグリム―ドイツ的なフォークロア』(郁文堂)、編著書には『グリム童話と表象文化―モティーフ・ジェンダー・ステレオタイプ―』(勉誠出版)、『カラー図説 グリムへの扉』(勉誠出版)、『超域する異界』(勉誠出版)など。

LINK UP TOYOが
役に立つ情報をお届けします