INDEX

  1. 伝説の多い釈迦の誕生
  2. 満ち足りた生活を捨て、出家へ
  3. 苦行を経て釈迦が得たもの
  4. 「煩悩」を克服するための釈迦の教え
  5. 釈迦の教えをもとに、心豊かな日常を過ごそう

INTERVIEWEE

渡辺 章悟

WATANABE Shogo

東洋大学 文学部 東洋思想文化学科 教授

博士(文学)。仏教思想学会理事、仏教学術振興会評議員。哲学、印度哲学・仏教学・宗教学を専門とし、大乗仏教の成立や仏教における智慧の思想史などを研究。主な著書に、『般若心経―テクスト・思想・文化』(大法輪閣)、『金剛般若経の研究』(山喜房佛書林)、『般若経大全』(春秋社)など。

伝説の多い釈迦の誕生

▲東洋大学の全キャンパスに設置されている四聖のレリーフ

釈迦(本名:ガウタマ・シッダールタ、パーリ語ではゴータマ・シッダッタ)は紀元前5〜6世紀頃、ルンビニー(現在のインドとネパールの国境付近にあった小国)に生まれました。父は釈迦族の国王であるシュッドーダナ、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘、マーヤーです。

マーヤーは出産のためにコーリヤに帰ろうとしていた道中、ルンビニー園という花園に差し掛かったときに産気づき、出産したといわれています。北伝によれば春暖かな4月8日のこと、ルンビニー園には花が咲きほこっていました。そのため釈迦が誕生したといわれる4月8日は、現在も「花祭り」( “灌仏会(かんぶつえ)”や“降誕会(ごうたんえ)”ともいわれる)としてお祝いが行われています。

釈迦は誕生した直後に立ち上がって7歩歩き、右手で天を、左手で大地を指差したまま「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と説いたといいます。

「この世界に生きる人々は誰一人として尊いものである」

言うまでもなく、これは伝説として語り継がれている有名なエピソードではありますが、釈迦という存在が神格化されている逸話といえるでしょう。

マーヤーは釈迦を出産した翌週、高熱により亡くなります。シュッドーダナは妻を失った悲しみに沈みますが、長らく子宝に恵まれなかったこと、待望の跡取り息子が誕生したこと、そして妻が最後に残した忘れ形見であったことから釈迦を深く愛するようになります。

「将来、大層な人物になるだろう」と息子に期待を寄せるシュッドーダナは、国一番の聖者であるアシダ仙人に占うよう依頼しました。

しかし、アシダ仙人は釈迦を見るや否や、涙を流し始めるのでした。シュッドーダナは「我が子を前に涙を見せるとは一体どういうことなのですか」と問いました。それに対して、アシダ仙人はこう答えました。

「このお方は王位を継承された折には、世界を治めるといわれている伝説の転輪王(てんりんおう)に、出家をされた折には無上の悟りを得られる仏陀(ぶっだ)となられるでしょう。しかし、老い先短い私は王子がブッダになられたとしてもすでにこの世にはおりますまい。ですからブッダの説法を聞くことはできません。そのことが悲しくて、涙せずにはいられなかったのです」。

このアシダ仙人の言葉を聞き、シュッドーダナは息子に王位を継承させようと、優れた教育が受けられるよう環境を整え、望むものは何でも与えたそうです。  
   

満ち足りた生活を捨て、出家へ


 
父の計らいにより、専用の宮殿や贅沢な衣服、美しい女性たちを呼んだ豪華な宴会など、釈迦は誰もが羨むような優雅な生活を送っていました。19歳になったときにはいとこのヤショーダラーと結婚し、息子ラーフラを授かります。

そんな順風満帆な人生だったはずの釈迦でしたが、成長するにつれ人間が陥る老い、病気、死の苦しみを知るようになります。これらの苦しみは、釈迦が宮殿の外に出かけようとした際に経験した出来事「四門出遊」(しもんしゅつゆう)がもとになっています。

ある日、東の門から出かけようとした釈迦は、歯が抜けて腰の曲がった老人を目にします。老人について侍従に尋ねた釈迦は、自らもいつかは年を取り、同じようになることを知った動揺から、外出を取り止めます。

後日、南の門から出かけようとした釈迦は、瘦せ衰えた病人を目にします。侍従から「病気になったら、誰もがあのような姿になる」と聞いた釈迦は、同じく動揺から宮殿に引き返すのでした。

さらに今度は西の門から出かけようとした釈迦。そこで、骨と皮ばかりに痩せこけ、動かなくなった死者が周囲の人々に囲まれながら運ばれていく様子を目にします。葬式の行列について侍従に尋ねた釈迦は、人は誰しも最後には死を迎えることを実感し、大きなショックを受けます。

「人は皆、老・病・死という苦しみを経験しなければいけないのか」

絶望した釈迦でしたが、最後に北門を出たときに出家者の堂々たる姿に出会い、そこに自分の進むべき道を見出して出家を決意するのでした。  
    

苦行を経て釈迦が得たもの



妻子ある身、またいずれは王位を継承する身でありながら、突如として出家を思い立つ釈迦。王はどうにかして釈迦の出家を思いとどまらせようと、踊り子たちに音楽や踊りを披露させ、慰めようとします。しかし、真夜中に踊り疲れた彼女たちがあられもない姿で眠っているのを目にした釈迦は、宮殿を飛び出します。

釈迦は教えを乞うためにアーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタという師のもとで瞑想修行に励みますが、納得できる答えを得ることは叶いませんでした。やがて「自らの手で答えを見つけなければいけない」と考えた釈迦は、呼吸を制限する修行や太陽の直射日光を浴び続ける修行、断食といった、過酷な修行に取り組むようになります。しかし肉体に苦痛を与えるとともに、精神も鍛える苦行を続けた釈迦は、悟りを得るどころか徐々に心身が衰えていくばかりでした。

6年もの長い間、苦行を続けるも何の教えにもたどり着けなかった釈迦は、ついに苦行を放棄し、近くの川で身を清めます。衰弱し、今にも力尽きそうだった釈迦でしたが、通りかかった村娘のスジャーターから乳粥を施され、なんとか気力を回復します。

「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」というスジャーターの歌を聴いた釈迦は、苦行が間違っていたことに気がつきます。

スジャーターの働きかけで心身ともに回復し、決意も新たにした釈迦は菩提樹の下で座禅を組み、瞑想を行います。途中、悪魔や鬼神の脅しや誘惑を受けるも、強い決意を抱いた釈迦は惑わされることなく、ついに悟りの境地に至ります。釈迦が35歳のときでした。  
   

「煩悩」を克服するための釈迦の教え



釈迦が出家した理由は、老い、病、死といった人を苦しめるものからの解放を探し求めたことにあります。これらを、釈迦は苦について四つの教え(四諦説)にまとめています。それは、「人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦である」という真実、これを“苦諦(くたい)”と呼び、実際に次のような四つの苦しみ「四苦」(しく)として説明しています。
 

生……生まれたことによる苦しみ。
老……老いること、気力や体力が衰退し、自由が利かなくなる苦しみ。
病……病による苦痛を感じる苦しみ。
死……死ぬことへの恐怖や不安、苦しみ。


また、日常的に経験することの多い四つの苦しみ(「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊盛苦」)が加わったものは四苦八苦と呼ばれています。これは悩みや苦しみを感じることを意味する言葉「四苦八苦」の語源となっています。
 

愛別離苦(あいべつりく)……愛する人と別離する苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)……嫌な相手と会うことが避けられない苦しみ。
求不得苦(ぐふとくく)………望むものが得られない苦しみ。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…肉体と精神が思うようにならない苦しみ。


これらの苦しみについて、釈迦は「人間が抱えている煩悩」が根本の原因だと考えました。たとえば欲しいものやお金を追い求めたところで、決して人間は満足することはなく、愛する者に執着したとしても、最後には別れを迎えなければいけません。

この煩悩や執着がもとで、結果的に苦が生じている真実を“集諦(じったい)”、そしてそれらの苦悩や欲望から離れることが悟りの平安にいたることを“滅諦(めったい)”、そして滅に至るための実践が“道諦(どうたい)”であり、それを八つの正しい道(八聖道)を釈迦は教えました。それこそが中道による生き方です。そして生きるとは何かという問いに対し、“諸行無常(しょぎょうむじょう)”の考えにたどり着きます。

「世の中のすべては移り変わるもので、何ひとつ確かなものはない。富や名声、健康や愛する人の命も永遠に続かない」

釈迦は物事への執着を捨て、それによってあらゆる煩悩から解脱すること執著による苦しみを離れた生き方、つまり苦をコントロールする生き方を示したのです。
    

釈迦の教えをもとに、心豊かな日常を過ごそう


 
釈迦も最初は、何不自由ない生活を送る一人の人間でした。しかし老いや病、死に怯える人の姿から、自分もまた苦悩する立場から逃れられないことに気がつきます。苦行を経て、悟りを開いた釈迦の教えは、現代に生きる私たちにかけがえのない大切なことを教えてくれます。

そんな釈迦の教えを今一度、かみしめてみてはいかがでしょうか。 

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