「将来の夢はなかった。」苦節の画家が描き続けることをやめない理由

「将来の夢は?」
誰もが一度は聞かれたことのあるこの質問。

迷いなく答えることができる人もいれば、将来の夢が見つからない自分を悲観したり、理想の自分になれずに焦りを感じる人も多いのではないでしょうか?

今回のゲストは、若手画家の創作活動を応援し具象絵画の可能性を開くことを目的とした「絹谷幸二賞」(毎日新聞主催)を2018年に受賞し、画家としての活動の幅を広げる『ユアサエボシ』こと、東洋大学卒業生の湯浅浩幸さん(35)

幼少時から画家を志し今に至るのかと思いきや、意外にも「将来の夢はなかった」という湯浅さん。湯浅さんはどうして描き続けることができるのでしょう。その答えを探るうちに見えてきたのは、常に自分を肯定し、人生を楽しもうとする姿でした。

何も無くなったときに「絵を描こう」と思った


画像:湯浅浩幸さん

―絹谷幸二賞の受賞おめでとうございます。どのような作品を制作されているのですか?

「1950年代ごろのイラストや広告を組み合わせて、絵画やコラージュを制作しています。不条理で非論理的なものを組み合わせ、人間の思考の外にある無意識下の世界を表現する『シュルレアリスム』の影響を受けています。」


画像:アトリエに飾られた絹谷幸二賞受賞作「女性工員 No.4」

―なるほど。では幼いころから画家を志していたのですか?

「そんなことはありません。学生時代は特になりたいものや将来の夢がなく、大学卒業後も一般企業に就職しました。就職活動のときも単純に『どうせ働くなら、稼げる仕事に就こう!』と思い、目先の給料が良かっただけの会社を選んだんです。1日に約500件の営業電話をかけて、そのうち10件くらいに資料を郵送できる。そんな生活を半年ほど続けていたら、ある日、社内放送でいきなり『倒産のお知らせ』がアナウンスされて(笑)。」

―それは驚きますね。

「ええ。仕事も失ったのですが、それと同じ時期に、当時付き合っていた彼女にも振られてしまい(笑)。かつてないくらいに落ち込みました。そんな時期に、ふと『絵を描こう』と思ったんです。」

―いきなり「絵を描こう」と思い立ったのは、もともと絵が得意だったからですか?

「美術の授業や歴史の教科書に出てくる肖像画や風俗画が好きでしたが、絵が得意というわけではなかったし、落書き程度にしか描いたことはありませんでした。しかし、その時は不思議と『決めてしまった』のです。自分は画家になると決めてしまった。

それから、入試に特別な技術が必要なかった美術系の専門学校に入り、鉛筆の削り方から学びました。それが23歳のときです。今思えば、自分が一生懸命守り、大事だと思っていたものを次々と失って、もう何も失うものがないゼロ地点に立ったことで本当の欲求が湧いてきたのかもしれません。現実逃避と言われれば否定はできませんが(笑)。」

「公募展」に落ち続けた20代

―23歳で画家になることを決めたとはいえ、これまでご苦労もあったのではないですか?

「専門学校を卒業してからは、アルバイトをしながら創作活動を続けました。ひたすら描いて公募展に出しては、当然のように落ちるという期間が6年くらいありました。当時は、落ちるのが当たり前だと思っていたので、特に悔しがることもなく次の制作に移る、というのを淡々と続けていた感じです。」

―ご自身の作品に対する評価が変わってきたと感じたのはいつごろですか?

「30代に入り、『ユアサエボシ』という架空の画家の作品を僕が再制作しているという設定で作品を発表するようなってからは、公募展に選出されたり、展示の機会をいただけるようになりました。それが画家としてのターニングポイントでした。」


画像:詳細に設定された架空の画家「ユアサエボシ」

―架空の画家「ユアサエボシ」の作品を再制作というのは?

「『ユアサエボシ』は1924年に生まれて1987年に亡くなった画家で、架空の自分です。戦後の混乱や火事で、今まで描いてきた作品のほとんどが失われてしまったので、現代に生きるもう1人の自分がそれらの作品を再制作している――という設定で創作をしているのです。

例えばこちらは、敗戦後、GHQの支配下に置かれる日本で、『ユアサエボシ』が米兵の似顔絵を瓦に描いたところ、好評を博して似顔絵を求める米兵たちが彼のもとに列をなした、という設定で描いた作品です。


画像:「GHQ PORTRAITS」

もともと、三島由紀夫であるとか、澁沢龍彦、横尾忠則らが活躍した1950~60年代くらいの時代に強く惹かれるものがあって。当時、僕が生きていたならきっとこんなものを作っていたんじゃないかと考えながら日々創作にあたっています。私の経験したことのない過去への憧憬がイマジネーションになっていますね。」

―湯浅さんの作品を見ていると、まるで戦後の日本にタイムスリップしたかのように感じますね。失礼ですが、これまで画家をやめようと思ったことはなかったのですか?

「それが不思議とないのです(笑)。実は29歳の時、生活のために印刷工場に就職したのですが、絵を描く時間がなくなったフラストレーションで、結局1年で辞めてしまいました。

多分僕は、自分のやっていることに自信があるんだと思います。自分の作品が好きだし、過去の作品を見返しても、『よくできているなぁ』『今の自分じゃ逆に作れないなぁ』なんて思ったり。結局、自分の作品を一番評価してあげられるのは自分じゃないですか。

―確かにそうですよね。作品の制作過程においては、どんなことに気を遣っていますか?

「僕の作品は、いろんな素材を集め、それを画面の中で組み合わせることで、世界感を形成しています。幾度となく構図や素材の配置を考え、自分の中で“ストン”と腹落ちするところを探す営みとでも言いましょうか。気を付けているのは、作品に微妙な“違和感”を残すこと


画像:新聞を切り抜き、5㎝×5㎝の枠の中で表現したコラージュ作品

作品は、コンセプトから考えると説明的で完成されたものになりすぎてしまいます。まずは気の向くまま、やりたいことをやってみて(描いてみて)、その後コンセプトに寄せていく。考えさせる余地を残した作品は、見た人の想像力を膨らませる『遊び』のようなものがとても魅力的だと思うんです。米兵の瓦の作品も、最初は単に『瓦に描いてみたい』という欲求から始まったものなんですよ。」

「人生は暇つぶし。」余計なプライドはいらない

―ここまで湯浅さんが画家を続けてこられた理由は、やはり描くことが好きだからですか?

「それもありますが、実は描く行為自体にはだいぶ前から飽きていて(笑)。やはり、自分の想いをダイレクトに形にできる喜びが大きいですね。あと、僕は美大を出ていないので美術の常識に疎く、余計なプライドがないのも長く続けられている理由かもしれません

影響を受けた作家にも独特でオリジナリティ溢れるものが多く、そこから刺激を受けたことで今の作風があると思っています。」

―影響を受けた方というのは、どなたですか?

「画家ではないのですが、小説家の深沢七郎さんが好きで人生の参考にしています。この方は、『人生は暇つぶし』という精神性を持っていて、小説家以外にも音楽家、農場、今川焼き屋をやったり、各地を放浪したりといろいろなことにチャレンジしていた人です。

彼の人生を思うと、自分も『どうせ暇つぶしなら好きなことをやってみるか』と勇気をもらえるんです。人生って、一見遠回りやムダに思えることも実は繋がっていて、どこかで形になる瞬間があると思っています。僕も、サラリーマン時代や公募展に落ち続けた6年間があったからこそ、今があるんじゃないかなぁ、と。

自分の中にある“違和感”に目を向けて

―将来の夢が見つからなかったり、理想の自分になれず悩んでいる人に湯浅さんならではのメッセージはありますか?

「そうですね。夢がない自分に絶望や焦りを感じているのは、無意識に自分を演じようとしているからかもしれません。人はみんな、どこかに“違和感”を内包している生き物であるし、それを直視しようとしない。でも、実はそれが心の中から湧き出る本当の欲求だったりする。

僕は、自分の中の“違和感”が大きくなって画家という道を選びました。みなさんも、無理に何かになろうと思わなくても、日々を大切に、自分に素直に生きることで、自らの声が聞こえてくることがあるのではないでしょうか。

そして、やってみたいと思ったら、いつでも何歳からでもそこがスタート地点です。余計なプライドは捨てて、何事もチャレンジしてみることが大切だと思います。」

―ありがとうございました。もし学生時代の湯浅さんが、今、画家として活躍する湯浅さんに出会ったらどう思うでしょうね。

「それはもう、『何してんの』と驚くでしょうね(笑)。」

まとめ

自らを肯定的に受け入れて、自らの人生を楽しむ湯浅さん。自分の気持ちに素直に生きることで、自然となりたい自分が見えてくるのかもしれません。現在は、2018年9月の「六甲ミーツアート」、12月の「シェル美術賞展」に向けて、精力的に創作活動を行っているそうです。ご興味のある方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

プロフィール

湯浅浩幸(ゆあさ ひろゆき)/ユアサエボシ
2005年東洋大学経済学部国際経済学科卒業
画家
東洋大学を卒業後、サラリーマン生活を経て画家に転身。自宅アトリエを拠点にアクリル画、コラージュ作品を精力的に発表している。主な受賞歴は 「千葉市芸術文化新人賞」(2015年)、「絹谷幸二賞」(2018年)。