号外コレクター・羽島知之さんが選ぶ「後世に残したい貴重な号外6選」

世間を騒がす大事件から日本人の誇らしい活躍など、突発的なニュースを知らせるため、臨時に街頭で配布される新聞の“号外”。「号外!号外!」と新聞社員が配る紙面を、駅前などで受け取ったことがあるという方もいるのではないでしょうか。

今回お話をお聞きするのは、約70年間にわたり、10万点を超えるかわら版から新聞や号外を収集されてきたという、東洋大学卒業生で東洋文化新聞研究所代表の羽島知之さん。これまでのコレクションにはどんな号外があるのか。その数々の貴重な号外の中から後世に残したい号外をはじめ、希少な号外、号外から読み解く時代の変遷など、号外にまつわるさまざまなお話をお伺いしました。

号外収集家、羽島さんの思う“号外の魅力”とは?

――羽島さんが号外を収集するようになったきっかけについてお聞かせください。

「中学生の頃、“新聞の題字を集めて日本地図の上に貼り付ける”という単元授業があったのですが、この授業がきっかけで新聞に興味を持つようになりました。それから高校生になった1951(昭和26)年、渋谷駅前で偶然“サンフランシスコ講和条約”の号外をもらったときに、『号外ってすごいなあ』と思うようになりました。そこから新聞への興味が、号外に行き着いたのでしょう。」

――号外の魅力は、どこにあると思いますか。

「新聞社に問い合わせれば後々でも手に入る可能性がある販売されている通常の新聞とは異なり、号外はその場で配布が終了すれば他に手に入れる手段はありません。また、国内で発行された新聞が保存されている国立国会図書館にも号外は所蔵されません。その日その場にいないと手に入れられない、それだけ希少なものであることが号外の最大の魅力だと思います。」

――たしかに、号外は配布のタイミングに居合わせることもなかなかないですよね。でもなぜ号外は国立国会図書館に所蔵されないのでしょうか。

「新聞には発行した号の番号が記されていますが、号外は“号の外”という名の通り、発行号数がありません。つまり、発行された日時は判明しても、いつ・どこの新聞社がどんな号外を発行したのかがわからない号外は、欠号がないよう号を揃えて逐次刊行物を所蔵している国立国会図書館には所蔵ができないのです。号外は、必ずしも受け取れる保証はなく、いつ・どこの社が発行したのか確認することも容易ではありません。」

――号外といえば街頭で配られているイメージがあるのですが、具体的にはどこで配布されているのでしょうか。

「現在の主な配布場所は、新橋駅前にあるSL広場や有楽町、渋谷、新宿などの繁華街ですね。特に新橋は、サラリーマンが集まる場所としても知られており、よく配布されます。」

――場所とともに、号外が配られる時間帯も決まっているのでしょうか。

「号外は皆さんに読んでもらいたい速報性の高いものであるため、人がいないときに配っても意味がありません。朝刊配達後の午前中に起きた出来事は号外としてお昼頃に配られますが、ちょうど昼食にしようと外に出てきた方々をターゲットに配る目的もあります。」

――なるほど。配布する以外にも、号外が出される方法はあるのでしょうか。

「配布される号外以外にも、主要駅などの人が集まる場所や、新聞社の前に掲示される、張り出し号外もあります。

もともと号外には、受け取った人に新聞を購読してもらう宣伝のような役割も含まれていましたが、現代では号外を配布するのではなく、インターネットで検索して新聞社のWEBサイトから簡単にコピーが入手できる電子号外(PDF号外)が主流になりつつあります。時代の変遷とともに、号外もさまざまな形に変化しているんですね。」

――号外の配布には、それだけ時間も労力も必要となりますよね。

「通常の新聞配達とは別に、配布するための人員が割かれて配布されますが、号外の配布で生じる課題もあります。読み終わった人がその場で号外を丸めてゴミとして路上に捨ててしまうことで、近隣の商店や住民からクレームが寄せられることもあるんです。

また、最近目立つのはインターネットオークションに号外が出品されるケースですね。通常、配布する号外は1人1枚が原則ですが、人によっては何枚も受け取り、その日のうちにオークションに出品して販売利益をあげている人がいます。」

――70年にもわたって号外を収集されている羽島さんですが、現在探している号外などはあるのでしょうか。

「未だに探しているのは、昭和の大横綱として知られる双葉山に関する幻の号外です。驚異的な強さを誇っていた双葉山でしたが、1939(昭和14)年に69勝で連勝記録がストップしてしまったときは号外が出るほどの出来事だったそうです。その号外をもらった人がいるという話を相撲雑誌で読んだことがありますが、実はその号外自体が本当に配布されたのか、現物がないのではっきりわかっていません。

当時使われていたカメラで撮影された写真は、新聞社に持って帰って現像する必要がありました。それに活版印刷で金属製の活字を組み合わせて版を作らなければいけません。つまり、号外を制作するのに少なくとも1時間以上はかかる。相撲の取組が終了して、観客が帰るまでに号外を間に合わせることは不可能に近いんですよ。実際にずっと探し回っているのですが、なかなか出会えないんですね。翌日の朝刊で見た双葉山の報道を『号外で見た』と勘違いしているのかもしれません……。

でも、もし本当にあったとしたら、号外コレクターとしてはやっぱり実際に見てみたいなと思いますね。」

――それでは、羽島さんが考える“後世に残したい貴重な号外”をご紹介いただけますか。

【後世に残したい号外①】
1934年11月2日 読売新聞

「まずこちらは、1934(昭和9)年の11月2日に、ベーブ・ルースを含めたメジャーリーグ選手の選抜チームが来日した際の号外です。当時、日本にはプロ野球がありませんでした。そこで、読売新聞のオーナーだった正力松太郎(しょうりき・まつたろう)氏が選抜チームをアメリカから呼び、日本のチームと試合をすることになった。そのときに配布されたものです。」

――「帝都沸く・見よ!!この大歡迎」と見出しにあるように、本当に多くの人から注目を浴びていたことがわかります。

「東京駅から銀座通りをパレードした際の様子が報じられていますが、ベーブ・ルースの乗った車を大観衆が取り囲むほどの熱狂ぶりだったようです。」

【後世に残したい号外②】
1926年12月25日 東京日日新聞

「続いて、こちらは大正天皇が崩御された際の号外です。毎日新聞東京本社版の前身にあたる東京日日新聞が“崩御”の知らせとともに、次の元号が“光文”であると報じています。」

――実際の元号は“昭和”ですが、なぜ“光文”の号外が出たのでしょうか。

「当時も現在と同様、あらゆる情報元から記者が取材をしていました。そのため、どこからか誤った情報が漏れたのかもしれませんし、本当に元号が“光文”になるはずだったものの、『こんなにも重大な情報が、一新聞社だけにリークされているなんて。発表もしてないのに』と大きな問題となったという説もあります。結果的に大スクープどころか、社長も編集局長も辞表を書くまでに至り、これは歴史的誤報ともいわれていますね。」

――日本を揺るがすほどの一大事だったのですね。

「ただ、東京日日新聞は朝刊にも『新しい元号は“光文”である』と載せています。それほど、確実性の高いと思われる情報だったのでしょう。でも、政府としては重要な発表が一新聞社にすっぱ抜かれたとあっては面目まるつぶれ。東京日日新聞によって先に報じられてしまったことで、実際の元号は“昭和”になったという話もありますが、真相はわかりません。そうしたさまざまな想像ができることも、この号外の価値であり、魅力でもあるかなと思っています。」

【後世に残したい号外③】
1989年1月7日 朝日新聞

「同様に、こちらは昭和天皇が崩御された際の号外です。このときは全国で115もの新聞社が号外を発行しました。2019年は4月末をもって元号が変わりますが、大概の人は、人生のうちで元号が変わる号外を手にするのは1回か2回。そう考えると、こちらは歴史的な資料としても貴重な号外なのではないかと思います。」

【後世に残したい号外④】
1941年12月8日 朝日新聞

――こちらの号外は、随分と小さいですね。

「これは第二次世界大戦・太平洋戦争の開戦を報じた、朝日新聞の号外です。この日の夕刊では、大々的に報じられていますが、早朝の開戦を伝える第一報は、各紙とも小さな号外でした。」

【後世に残したい号外⑤】
1944年6月16日 共同号外

「太平洋戦争下、政府は言論統制を強化する一方、用紙事情の悪化に伴い、1943(昭和18)年には夕刊も姿を消し、朝刊も2ページ建てになります。号外の自由発行も禁止され、1944(昭和19)年5月には、政府の『要請』あるいは『承認』があった場合のみ、在京5社『朝日・毎日・読売報知・東京・日本産業経済』が『共同号外』を発行するという国策がとられました。」

「その後この共同号外は、6月に当番社の朝日新聞社から『北九州空爆とサイパンの戦況』で発行されました。朝日新聞社はこの日、続報記事で『第二号外』の発行を試みましたが、ゲラ(試し刷りした見本)を作った段階で政府の許可が下りず、未発行でお蔵入りした唯一の第二号外のゲラ刷りが写真左の号外です。これは関係者が密かに残していたもので、私のコレクションの中でも大珍品といえる号外の一つですね。」

――物資が少なく、報道の条件が厳しい戦時中であっても、号外は人々にいち早く大切な情報を伝えていたのですね。

【後世に残したい号外⑥】
2011年3月12日 石巻日日新聞、河北新報

「皆さんの記憶に新しい号外としては、3.11の東日本大震災ではないでしょうか。震災に関する号外で特に有名なのは、宮城県の石巻日日(ひび)新聞と河北新報です。

震災直後、石巻日日新聞の社屋は津波により浸水し、輪転機(印刷機)が動かない状態でした。しかし東洋大学の卒業生で石巻日日新聞社長、近江弘一氏の『新聞を途絶えさせるわけにはいかない』というひと言で、手書きで号外を作ることが決定しました。懐中電灯などの明かりを頼りに、近江氏が輪転機から切り取った新聞用紙に書き込んだものを、社員が手分けして書き写し、なんとか6枚の号外を完成させます。そしてそれが石巻市の避難所など、人が集まる場所に貼られました。」

――停電で情報も途絶えていたなか、号外は避難していた方々にとっても大きな助けになったと思います。

「そうですね。もう一つ、この石巻日日新聞が張り出した号外は、アメリカ・ワシントンにある新聞をテーマにした博物館『ニュージアム』(NEWSEUM)、日本では国立国会図書館と日本新聞博物館に現物が永久保存されています。

一方で、河北新報は『われわれの新聞社に何かがあったときには、他の新聞社に協力を仰ぐ』という災害協定を新潟日報社と結んでいました。その協定のもと新潟で号外を印刷し、1万部が車で運ばれました。」

元号が変わる今だからこそ考えたい、号外が持つ意味


▲(右)2016年8月7日「日本1号!!萩野金」報知新聞社/(中央上)2019年7月21日「御嶽海 初優勝」市民タイムス/(中央下)2017年9月9日「桐生9秒98」朝日新聞社/(左)2014年1月3日「東洋大 総合V」読売新聞社

――戦前から最近の号外まで、羽島さんは本当にさまざまな号外を収集されていますが、号外にはどのような変化が見られますか。

「新聞や号外には、かつて戦争について報じる役目がありました。日本に残された家族は新聞や号外で戦況を知るとともに、戦死者の名前一覧をもとに、戦地にいる家族が無事なのか食い入るように読んでいました。

もともと号外は無料で配るため、新聞社としてはそう頻繁にも出せるものではありません。オリンピックなどでの金メダル獲得によって号外が発行されることもありますが、今の時代、テレビやインターネットを通して、速報で人々にニュースが報じられています。しかし、これだけメディアが多様化しているなかでも、号外が未だに発行されている。ニュース速報を手にとって紙面でじっくり読みたいという人はまだまだいるのです。だから、これからも号外には存在意義があるのだと思います。」

――2019年5月、新しい元号になることが連日大きな話題を呼んでいます。これまでも元号の変遷が号外で取り上げられていますが、今回も同様に号外は配布されるのでしょうか。

「元号が変わるタイミングはそうあるものではありません。新しい元号は、おそらく政府が発表するその瞬間まで公表はされないでしょう。したがって新しい元号が発表されるときには号外が発行される可能性は大きいと思います。

しかもこれまで、元号が変わることは天皇が崩御されることでもありました。今回は生前退位による改元で、これまでの元号が変わる歴史とは意味合いが異なります。新聞社はそのことをどのように報じるのか。そういう意味でも、もし号外が配布されたら、それはまた歴史が大きく動いた瞬間を切り取った貴重な1枚になるでしょう。」

いつの時代も、歴史の重要なポイントには号外があった

70年にもわたり、数多くの号外を収集されてきた羽島さん。貴重なコレクションをご紹介いただき、日本が歩んできた歴史の重みをあらためて知ることができました。

2019年4月には新しい元号が発表、5月に施行されるという、大きな歴史の転換に立ち会うこととなります。そんな“平成”の終わりには、また新たな号外が日本中で配布されるでしょう。その際は羽島さんのお話を思い出し、号外に注目してみたいですね。

このように、歴史が動いた瞬間にはたくさんの号外が配られていました。いま一度、号外を通してこれまで日本が積み重ねてきた時代の変遷を振り返ってみてはいかがでしょうか。きっと新たな発見があるはずです。

<プロフィール>

羽島 知之(はじま ともゆき)
1960年東洋大学経済学部経済学科卒業

1935年東京生まれ。日本新聞資料協会常任理事、三栄広告社取締役、日本新聞教育文化財団特別専門委員、東洋大学理事などを歴任。現在、東洋文化新聞研究所代表、東洋大学校友会長。編著書は、写真・絵画集成『新聞の歴史』全3巻(日本図書センター)、『号外でわかる日本近代史―厳選100枚で振り返る激動の130年』(ベストブック)、『号外』シリーズ全12巻(大空社)、『明治・大正・昭和駅弁ラベル大図鑑』(国書刊行会)など。