INDEX

  1. お寺の跡取りとして生を受け、良い教育を受けられる環境だった少年時代
  2. 東京大学在学中発見した「東洋の哲学」
  3. 29歳で哲学館を創立。合理的に、良いものがあれば取り入れていく円了の考え方
  4. 足りない資金の集め方は、現代の「クラウドファンディング」
  5. 降りかかる試練の中でも曲げない“信念”
  6. 人間力の大きさに比例して、事業は大きくなる

INTERVIEWEE

北田 建二

KITADA Kenji

東洋大学井上円了記念博物館学芸員
1974年生まれ
世田谷区教育委員会民家園係、文京ふるさと歴史館勤務を経て、現職に就く。
文京ふるさと歴史館では「文京・まち再発見2」、「近代建築の好奇心 武田五一の軌跡」などの展覧会を担当。
著書に『存在の謎に挑む 哲学者井上円了』(展覧会図録、共著)、『記憶のなかの文京区』(共著)など。

お寺の跡取りとして生を受け、良い教育を受けられる環境だった少年時代

画像:井上円了記念博物館学芸員・北田建二氏
 
ー円了先生はお寺の生まれだったそうですね。
  
「そうです。時代が明治に変わる10年前の1858(安政5)年に、現在の新潟県長岡市にあるお寺、慈光寺に生まれました。慈光寺は真宗大谷派の末寺で、円了先生は長男でしたから跡取りとしてしっかりとした教育を受けたようです。」
  ー今では教育を受けることのできる環境というのは当たり前に近いですが、当時はそうではなかったように思います。
  
「その点、円了先生は両親も教育熱心だったこともあって、幼少期から良い教育が受けられる環境であったことは間違いないようです。」
  ー具体的に、円了先生はどのような勉強をしていたのですか?
  
少年時代は主に漢学ですね。漢文や儒学などを学んでいたようです。その後、洋学に転じて、16歳のときに長岡の洋学校に入学します。今の新潟県立長岡高等学校ですね。そこで、英語や数学、世界史、地理などを習っています。この時代に円了先生が詠んだ漢詩を記した資料が残されているのですが、これを見ると、当時、どのような学校生活を送っていたのかが分かります。ときには“立身出世を果たさねばならないのに、こんな怠惰なことじゃあダメだ!”と焦ってみたり、“自分はなんて勉強ができないんだ・・・”とヘコんでみたり、そんな様子もうかがえます。ですが、やはり学業は優秀だったんでしょう。 洋学校を卒業したあと、真宗大谷派の本山、京都・東本願寺から“こちらに来て勉強しなさい”と呼び出されるのです。」
  ー近代化が急速に進む明治時代。仏教が衰退していくと言われていた時代背景もあり、お寺も教育に力を入れようとしていたんですね。
  
「円了先生は宗派の次世代を担う存在として期待されたのでしょうね。そこからさらに東本願寺の国内留学生というかたちで東京に出て、1881(明治14)年に東京大学文学部哲学科に入学します。ちなみに、このときの哲学科の入学生は、円了先生ただひとりです。」
  ーなるほど。ここまでに、円了先生は漢学・洋学と多岐に渡る学問を勉強していますが、東京大学では何を学んだんですか?
  
「東京大学に入ってから、本学的に哲学を勉強するようになります。」
  

東京大学在学中発見した「東洋の哲学」

動画:井上円了記念博物館内に展示されている、円了ゆかりの品物たち
  
ーということは、洋学校に入学した後は主に西洋のことを学んだのですか?
  
「厳密に言うと哲学は海外から輸入された学問ですから、西洋の学問と言えるかもしれませんが、もちろん西洋の哲学以外にも、東京大学では東洋哲学や日本文学、歴史、仏教学などの授業も受けています。そのなかでも、特にハマったのがアーネスト・フェノロサに教わった西洋哲学なんです。それで、大学で教わるだけでなく、自分でも哲学の研究を進めていくのですが、そうしたなか、円了先生は“自分が幼い頃から接してきた仏教は、実は東洋の哲学なのではないか”。このことを発見するのです。」
  ーそれはつまり、西洋哲学を学んだからこそ、仏教の再評価につながったということでしょうか?
  
「真理を探究する学問である哲学を学んだことで、実は仏教の教えのなかに西洋哲学の言う真理があるのではないか。つまり、仏教は東洋の哲学である。そうした発見があったのでしょう。また、これは私の見解ですが、哲学とともに西洋の学問・科学を学んだことで、合理的な思考法を身につけていったのではないかと。例えば、当館でも展示している円了先生の代表作『妖怪学講義』では、収集した色んな資料・情報を分析し、分類・整理しながら解明をはかる。このような手法が用いられています。」
  ーなるほど。哲学を学びながら視野を広げ、自らの思考をみがいていったということですね。
  
「当時は、富国強兵や経済的な面、生活様式についても西洋のスタイルが広まりつつありました。ですが、思想的な部分、合理的な考え方が日本人に普及しているのか、円了先生はそこを疑問に感じていたのでしょう。」 ー経済やライフスタイルが近代化しているけれど、日本人の考え方や精神的な面は昔のままだということですか? 「はい。要するに哲学を普及することで“日本人の精神的な面の近代化”を進めたい。それが社会の発展に必要だと考えたんです。とはいえ、当時、哲学を学べる場所は東京大学しかありませんでした。そして、東京大学で学ぶと、予備門の時代も含めると、卒業するまでにそれなりの年数がかかる。当然、お金もかかる。さらに、輸入学問の哲学を学ぶには高い語学力も必要。このように様々な壁があったんです。今でも東京大学に入るのは大変ですけど、昔は本当にエリート中のエリートしか行けなかったんです。」
  ー哲学を広めたいけれど、学べるのはほんの一握りの人しか入れない東京大学だけ…。大きな壁に直面したんですね。
  
「そこで円了先生は、“自分で学校を創ろう”と思い立つんです。」
  

29歳で哲学館を創立。合理的に、良いものがあれば取り入れていく円了の考え方

画像:井上円了が雑誌の付録として頒布した「哲学館開設の旨趣」
  
ー学校創設ともなると、これもまたお金が必要ですよね。流石に実家がお寺と言えど多額の資金を出すのは難しいですし、円了先生もまだ若い時期ですよね?
  
「厳密に言うと、すでに東京大学の学生時代に学校創設の上申書を東本願寺に提出しているのですが、実際に哲学館を創立したのが29歳の時です。学校設立の資金は、多くの有志の寄付によってまかなわれたようですが、実際に哲学館を創立する直前に、教育理念や方針といった学校の設立趣旨をまとめた『哲学館開設の旨趣』を印刷して、これを『哲学雑誌』という哲学会の機関誌の付録として頒布し、寄付金募集も行っているんです。ちなみに、その資料は現在この博物館の常設展で展示しています。」
  ー様々な人たちのバックアップを受けつつ、自分でも資金集めを行ったんですか。しかし、雑誌で資金集めとはまたユニークですね。
  
「そうですね。円了先生は大学卒業後、しばらく著述家として活動もしていました。また、大学時代に円了先生と仲間たちが中心になって設立した哲学会の機関紙を発行していて、この雑誌を通して、万人が哲学を学べる学校をつくることと、そのための寄付金募集を行ったわけです。現代的に言えば、メディアを使って寄付を募ったという感じでしょうか。そうして、東京大学の近くにある麟祥院というお寺の境内にある一室27畳の建物を借りて、1887(明治20)年に哲学館はスタートしました。」
   画像:創立当初の哲学館の教場
  
ー生徒は集まったのでしょうか?
  
「最初は定員50名だったのですが、すぐに埋まり、追加で募集した結果、入学式の時には130人にもなっていたそうです。やはり、新しい学問に対して、関心をもっていた人が少なからずいたということなんでしょう。」
  ーそれはすごいですね!
  
「翌年には、今で言う通信教育を始めるんです。教室での講義を筆記印刷してまとめた『哲学館講義録』を刊行するのですが、哲学館では通学生のことを館内員と呼んだのに対して、この講義録の購読者を館外員と呼んで、ただの購読者としてではなく、哲学館の学生として扱っています。こうした館外員は全国各地にいて、当時、多くの人たちがこの講義録を手にして学んだといいます。」
  ーこのような活動を見てみると、「多くの人達に哲学を普及させたい」という思いを実現するために合理的に物事を進めていて、経営者としても優れた手腕を持っているような気がします。その後はどのようにして哲学館を発展させていくのでしょうか?
  
「円了先生は哲学館の教育体制を整えていくなかで、学校創立の翌年、海外視察におもむき、およそ1年かけて欧米各国の教育事情などを見てまわるのですが、ここで見たものが今後の学校の発展に深く関わってきます。というのも、哲学館では創立当初から西洋哲学と東洋哲学を教えていましたが、どちらかというとまだ西洋哲学のほうに比重が置かれていたように思います。ですが、西欧を視察してあることに気付きました。」
  ーあることとは?
  
「西欧の国々では、『自国の文化、学問を大切にしている』ということです。円了先生の言葉を借りて言えば、それによって『一国の独立』を保っているということに気付くんですね。ところが、日本は “舶来上等”とでも言うべきでしょうか、西洋化一辺倒で自国の文化、学問が顧みられなくなってきている。今後、日本が西欧諸国と対等に渡り合っていくには、まず『国の独立』を保たなければならないのではないかと。そのためには、日本、ひいては東洋の独自の文化、学問をもっと重視した教育・研究を行う大学をつくる必要があると考えました。円了先生が帰国してまもなく、哲学館は現在の東京都文京区向丘に新校舎を建設して、麟祥院の仮校舎から移転します。これと同時に、大学の設立に向けて哲学館の改良に取り組んでいくのです。」
  ー外国のものに対してある種の憧れというのは、現代の日本にも少なからずある風潮ですよね。その一方で、日本の伝統文化や職人的なワザによってつくりだされるメイド・イン・ジャパンのクオリティなどを評価する人もいる。どちらがいいというのは個人の価値観に拠るものですが、当時それに気付くというのは一歩時代を進んでいる印象を受けます。
  

足りない資金の集め方は、現代の「クラウドファンディング」

「円了先生に限らず、当時の知識人を中心に、こうした“西洋化一辺倒”の風潮に対する危機感をもつ人は多くいました。ですから、円了先生のこうした考えを受け入れて、支援してくれた人たちも結構いたのではないでしょうか。」
  ー当時の支援者にはどのような人がいたのでしょうか。
  
「円了先生の支援者のなかで、もっとも知られた人物の一人は、勝海舟です。勝海舟は資金的なバックアップもしてくれていますが、それ以上に円了先生とっては『精神上の師』と言うほどの存在でした。いま当館で展示している資料のなかに、勝海舟から贈られた文殊菩薩像がありますが、円了先生はこの仏像を自分の宝物として終生大切にしています。
  
さらに、円了先生は、限られた人たちだけでなく、より広く支援を獲得するために、全国巡回講演を始めるんです。これは、各地を周りながら世間の人たちに哲学がどういうものなのかを講演して理解を広める。それとあわせて、哲学館の教育活動に賛同を集め、寄付金を獲得しようとするものです。もちろん、円了先生がいくら『キフ、キフ』と言ったところで、そう簡単に寄付金が集まるとは思えません。そこで、寄付をくれたお返しに、能書家として知られる勝海舟が書いた書をプレゼントすることにしたんですね。勝海舟も高齢でありながら協力を惜しまず、お返し用の書を揮毫してくれたようです。」
    画像:寄付金が高額だった際のお返しとして渡した「屏風」
  
ー資金を募るために様々な試行錯誤をしていたことがすごく伝わってきます。
  
「そうですね。1890(明治23)年に初めて行われて以来、円了先生の全国巡回講演は生涯を通じて継続的に行われていますが、寄付者へ贈呈する書は、1899(明治32)年に勝海舟が亡くなって以降は、円了先生が自ら筆をとって書を揮毫しています。興味深いことに、円了先生は寄付金のランクを設けていて、ランクに応じて書を何に揮毫するかを決めていたんですよ。つまり金額によってお返しする品を分けているのです。例えば、〇〇円以下だったら短冊や色紙に揮毫した書、その次は掛軸の小さいもの、そして中くらいのもの、大きいものとなる。寄付金ランクで一番高いのは屏風か襖となります。しかも、円了先生は、これを講演先できちんと公にしてします。そのようにして制作された書を、東洋大学では数多く収集・保存していて、当館ではそれらを定期的に展示するようにしています。」
   ーランクまで決めていたんですか!今で言うクラウドファンディングのようですね。大衆に説いて、お金に応じたお返しを渡すというのは。
  
「こういった所が、円了先生の学者らしからぬ一面ですね。学校経営者として高い理想を持ちながらも、現実的に物事を見ることもできる。自らで汗水流して目的を達成するためにできることを実践する。その点で経営者としての非常に高い才覚を発揮していたんだと思います。」
  ーそんな円了先生を中心に、生徒・資金・仲間も集まってきたんですね。
  

降りかかる試練の中でも曲げない“信念”

井上円了直筆の掛け軸
  
「ただ、1896(明治29)年に、火災で哲学館の校舎を失ってしまうんです。ですが、実は火災が起こるよりも前から校舎の移転を考えていて、新しい土地も買ってあったんですね。そこで、円了先生は移転を決意して、新校舎の建設に取り掛かるんです。その土地が、現在の東京都文京区にある白山キャンパスにあたります。」
  ー常に前しか見えていないんですね。円了先生という人は。
  
「当時、白山キャンパスは、学生が心配するほどの荒れ放題の土地だったそうです。今の白山キャンパスから考えると信じられないですよね。結果論かもしれませんが、先見の明があるとでもいうべきでしょうか。ですが、移転した後に今度は日本の教育史上、よく知られた哲学館事件が起こってしまいます。」
  ー具体的に、哲学館事件とはなんだったのでしょうか?
  
「当時、一部の学校の卒業生を除いて、中等教員の免許を取るには、難関の文部省の検定試験をパスする必要があったのですが、これを受けることなく卒業生に免許が与えられるという特典を、哲学館は得ていたのです。当時、私立学校でこの特典を文部省から認められていた学校はあまりありません。 この中等教員無試験検定の特典を文部省によって剥奪されてしまったのが哲学館事件と呼ばれるものです。
  
その原因は、個人的な見解では、文部省の言いがかりとしかいいようがないのですが、いずれにせよ無試験検定の特権は学生を集めるうえで重要な役割を果たしていたでしょうし、経営的にはかなりのダメージになったはずです。
  
その後、哲学館は哲学館大学(専門学校令に基づく哲学館大学)となって円了先生が初代学長に就任するのですが、事件後に『独立自活』の方針を掲げた円了先生は、大学となった後も無試験検定の再申請はしなかった。あくまで国に頼らず独力でやっていこうとしたんです。ですが、学生募集のことを考えると、経営的には厳しいものがある。ついには、学内からも卒業生の間からも再申請をすべきとの声が大きくなってきた。
  
こうして最終的には病気を理由に学長を退任するわけですが、私がこの博物館で円了先生の生涯を展示して思うのは、まず円了先生は理想をもって個人経営的に哲学館を始めたわけです。理想の実現に向けて、創立時よりも学校も大きくなりましたが、哲学館事件をはじめ自分のコントロールできないところも大きくなり、学校での教育活動に対する限界を感じたのではないか。そこで、学校経営から身を引いて、今度は国などからの干渉を受けにくい社会教育事業に舞台を移し、もう一度、自分の理想を独力で追求したのではないでしょうか。」
  ーそう聞くと、円了先生は高い理想と強い信念をもった超人的な人のようにも思えます。
  
「確かに、そのようなことをものすごく感じますね。円了先生が残した資料を見ると、あくまでも在野にあって、公正かつ中立な立場にあることにこだわったようにも見えますし。その一方で、いま博物館で展示している円了先生が使用した品々や著書を見てみると、ものすごくユーモアのある人だったのかなとも思います。どちらにしても、人を惹きつける魅力をもった人物であったことは間違いありません。」
  ー考える力と行動力。そして、人間味。やはり事業を成功させるには総合的な人間力が大切で、円了先生は全てを持っていたのだと感じます。それは先生の生い立ちによるところもあるのでしょうが、年を重ねても常に自分を成長させていこうとする姿勢は生きていく上で非常に大切なことですね。
  

人間力の大きさに比例して、事業は大きくなる

画像:井上円了が使用していた筆立て。ユニークな人間性が感じられる逸品
  
明治から現在に至るまで130年続く、大学を創ることができた理由。それは、理想と現実、真面目と遊び心。すなわち、円了氏の中にある人間力が大きく関与していたのではないでしょうか。また、海外視察の後に経営方針を大きく変えることを見ても、学ぶことと実践することの両輪を重んじていたことを今の私たちに伝えてくれます。原点にあるのは経験から学び、考えてすぐ実行する「行動力」です
  
現在は情報が氾濫し、経験をしなくともある程度のことは知ることができます。しかし、自ら考え抜き、経験をすることで物事の本質が見えくると同時に、周りを巻き込み行動に移すことが出来る。円了氏はまさにそれを体現してきたような人です。 そして、時に迷い、困難が起きようとも前を見て進む。それこそが、教育者として、経営者として井上円了氏が貫いた「哲学」なのかもしれません。
  

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